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ハト豆ねっと


おかめ市




鳩ヶ谷のまさしく、冬の風物詩「おかめ市」、
毎年鳩ヶ谷氷川神社で行われています。
12月23日の夜には「カッコメ」という大小熊手が境内に並び、鳩ヶ谷近隣の人々でにぎわいます。
露店もお昼過ぎから出ています。
ぜひ、お出かけを。


鳩ヶ谷氷川神社おかめ市

おかめ市のイラスト

鷲ではじまり鳩で締め
(鳩ヶ谷おかめ市の始まりは)

 日露戦争が終わった明治の終わりごろから鳩ヶ谷にも不景気風が吹き、鳩ヶ谷の町の商人たちが集まると、「にぎわった頃の三八市(さんぱちいち)みたいに、町いっぱいに人を集められないかなー」とため息をつく日々を送っていた。ある日のこと町の世話役数人が露天商の世界では有名な鳩ヶ谷・長井弥五郎親方のもとを訪ねて「なんかいい方法はないものか」と相談した。
このころ、弥五郎親方も町の世話役衆と同じ悩みを持っていた。鳩ヶ谷の市(いち)がさびしくなったと同様に露天商も全国のお寺や神社の露天市もさびれて来ていたことで、長井弥五郎は鳩ヶ谷長井の親方ではあるが、全国露天商の期待の星で、鳩ヶ谷の世話役衆が「何かいい策はないか」と話を持ち込んできたときには親方も悩みは共通するものだった。そのご世話役衆と数回の話し合いがあって考え出されたのが、人気抜群の浅草の酉の市を鳩ヶ谷へ呼ぶことに決まった。
 酉の市(おかめ市)の始まりは武州鷲宮神社であるといわれ、江戸の商人たちの鷲宮信仰はなかなかにあついのだが江戸から十三里(52k)は遠すぎて縁起物の熊手をかんたんに買うことが出来なかった。当時埼玉県内で熊手市が開かれていたのは本家の鷲宮神社と大宮氷川神社に浦和の調宮(つきのみや)神社だけだったので、浅草や王子の露天商も「それはいい話だ」とおおいに喜んで、鳩ヶ谷熊手市の第一回開催はいまから90年前の明治43年12月5日ときめられ、当時はまだ少なかった熊手屋が、11月の東京市内の酉の市が終わると「さあ、鳩ヶ谷だ」と露天商がいっせいに鳩ヶ谷へ集まる手はずがととのった。
だが、明治43年の8月8日の台風は豪雨となり、東海、関東、東北が浸水被害を受け、鳩ヶ谷でも平地の部分が被害を受け開催できず。
翌明治44年、明治天皇の御病気が重く「祭礼や鳴り物をつつしむよう」とのお触れによりこの年も延期となった。
また、明治45年には明治天皇が亡くなり国をあげて喪にふくしているのに歳末市どころではなくなる。
元号が変ったが、翌年の大正2年12月5日になり、第一回鳩ヶ谷熊手市(おかめ市)が盛大に開かれた。浅草のお酉様に集まっていた熊手屋さんが残った熊手をもっていっせいに参加した。また、今まで市のさびれ方をなげいていた露天商も喜んで各地から鳩ヶ谷に集まってきた。
 さて、これを迎えて鳩ヶ谷近くの村から祭囃子の講中が、町内のあちこちにやぐらを立て、「どんどんヒャララ・・ピーヒャラどんどん・・」と腕をきそいあった。いっぽう長井弥五郎親方は開催の条件として三年間は店を出してくれた人々の食事と夜間の灯り代は鳩ヶ谷もち、場所代、あとの掃除代不要という最大限のサービスを約束し実行したのである。
この熊手市開催にいっしょに頑張った町の世話役も、家族総出で煮付けや漬物を運んだという。
みんなの頑張りで第1回は大成功に終わり、翌年から年を追うごとに集まる人もふえて、売り上げも増加した。鳩ヶ谷の「おかめ市」の成功は周辺の町も同じことを考えたのか鳩ヶ谷長井の弥五郎親方におかめ市の開催を頼みに来た。
 鳩ヶ谷の12月5日を初日に、10日の大宮、12日の浦和、13日の蕨、15日の川口、西新井大師の22日となり、11月の東京都内の酉の市と、12月の埼玉南部と東京都の北部の「おかめ市」が、各町の歳末行事として定着していった。
浅草の熊手業者は弥五郎親方に感謝して、25日に締めの「おかめ市」をもう一度鳩ヶ谷で開いて、その稼ぎを親方の小遣いにしてもらおうと決議した。この日は年内最後の「おかめ市」なので、業者は惜しみなく値段を安くして、鳩ヶ谷でおかめを買う客には縁起の良い市となり、ますます盛況になっていった。(『郷土はとがや』より) 




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